たかまらせてどうでしょ?vol.3のジャッジ振り返り

とーやです!

先日開催されました、たかまらせてどうでしょ?vol.3にご参加の皆様、お疲れ様でした!私はバトルジャッジとして参加いたしました!

イベント感想を一言で。

マジで最高のイベントでしたね。

バトルに関しては、本戦トーナメントに入ってから一生盛り上がりっぱなしでした。ダンサーたちの一挙手一投足が会場の空気を作るあの感じがたまりませんでした。DJにVJにMCがダンサーのパフォーマンスをより一層と引き出すせいで、私の想像をはるかに超えるムーブの連発でしたね。

こんなに良いイベントでしたが、物申したいこともちゃんとあります(怒)。

ジャッジしんどすぎる。もうジャッジやりたくない。

イベントが終わって真っ先にそう感じました。
あの現場に居た皆さんなら大きく頷いてくれることでしょう。「え?このバトルに勝敗つけるの?どっちも勝ちでよくね?」と心の底から思っていました。なんなら今でも思ってます。自分の好きなことを好きなだけ表現しているダンサーの皆さんに対して、勝敗を決めるなんてことは私には少々荷が重いですよ。

ジャッジ総評でも言ったのですが、ポンポン旗上げてるように見えてて本当に悩んでますからね?ですが、頭の中で思い悩みすぎたら、今見た皆さんのムーブが頭の中で濁りそうだったので熟考はなるべく避けていました。

今回の記事は、私、とーやのジャッジ視点を踏まえて、バトルの雰囲気や傾向、感じたことなどを淡々と備忘録的にまとめておきます。

目次

私が感じたJPOPバトルの特徴

JPOPバトルは音楽に対する自身のイメージと他者のイメージがリンクした時に良いバトルになると感じました。

ダンスバトル全般として、音楽をいかに自分らしく表現するかは大事な考え方ですが、特にJPOP楽曲は、踊る方も見る方も一定の”イメージ”を持って音楽を聴いているため、その”イメージ”に沿ったり離れたりをダンスを通じて上手く表現する人が会場の空気を作っていたように感じます。”イメージ”という言葉は非常に抽象的であり、人によってその定義は異なりますが、ここでの”イメージ”とは「コンテンツに付随する”イメージ”」であると定義することとします。

なんだか複雑な言い回しになってしまって恐縮なのですが、要するに、「ドラマのあの曲だ!」とか「CMでよく聞くやつ!」というような、ドラマやCMなどのコンテンツがくっついて音楽の”イメージ”が自分の中で作り上げられているということです。また、それらのコンテンツを消費していた当時の記憶や体験が、音楽によってスイッチのように引き出し可能な状態であるものが「曲に対する”イメージ”を持っている」状態です。これは、ダンスしているかどうかに限らず、日本で普通に生活をしていれば自身の好きか嫌いか関係なく、容赦無しにイメージが形成されるものだと考えています。目的はコンテンツを消費することだったはずなのに、いつの間にかそのコンテンツの主題歌を口ずさんでいる経験は皆さんにもあったことでしょう。

その曲を聴くだけで、友だちと高校の帰り道にカラオケバンバンに行って、ドリンクバー単騎で粘りながらみんなで盛り上がっていた、あの日の情景やにおいがなんとなく思い出すことができると思いませんか?あの距離感にあった音楽こそ”JPOP”なのだと私は考えています。ジェームス・ブラウンやアッシャーを聞いて「いい青春時代だったぜ…(懐古)」という”イメージ”を持つ人はそうそういないと思います。もしそんな人が存在するのだとしたら、青春時代が激シブすぎるので、もっと適当にミクシーとか前略プロフィールとか魔法のアイランドとかやっておけよと私からきつく忠告しておきます(ジェネギャ)。
※JBやアッシャーに対して”イメージ”が全く無いわけではなく、ここではJPOPのような距離感のイメージは持っている人は少ないのではないかということを言いたいのだと添えておきます。

話をJPOPバトルに戻すと、その人が持っている”イメージ”がいかに、見ている人の”イメージ”に対して共感を得られるかが勝敗を分ける重要なポイントであると私は考えています。極端な例で言えば、石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」に対してバリバリにパワームーブを決めるビーボーイに音楽の力強さを感じる人もいれば、曲調に合わせて腕をしなやかに扱うワッカーに哀愁とストーリーを感じる人もいると思います。そのどちらも良いダンスであることは間違いないのですが、バトルにおいてはダンスを見ている人の”イメージ”にどこまで合致しているか、あるいは外しているかが、会場の空気を醸成する重要な要素となると考えています。JPOPは、生成したイメージがよりダイレクトにダンスを通して伝わりやすいので、会場が爆湧きする瞬間がたくさんありました。

皆さんの”イメージ”は?

ここまでの話で疑問が生じます。それは、<曲へのイメージの有無だけでバトルの勝敗に影響しないのでは?>という疑問です。例えば、知らない曲がかかったとしたら、その人は”イメージ”を持っていないのだから自動的に負けるはずです。また、技術に特化したダンサーは”イメージ”がなくても技術だけで勝てているような気がします。「イメージイメージ言うけどそんなに関係ないんじゃないの?」と思ってしまうのは自然なことではないでしょうか。

確かに、先日のバトルを見ていても、明らかに曲を知らなさそうだけど勝っている人がいたのは事実です。ですが、”イメージ”を持っていない曲でも、十分に共感させられるような”イメージ”を自身の体験から作り上げることは可能であり、そのイメージが見ている人の共感を得られれば、勝利することができると私は考えています。

例えば、「JPOP大好きマン」がいたとします(唐突)。様々なアーティストの曲を知っている彼ですが、そんな彼でも知らない曲がかかったとします。そんなとき、彼の頭の中では無意識に、自身がこれまで聞いてきた音楽から最も近い”イメージ”の音楽を頭の中で手繰り寄せて、そのイメージを持って上手に踊ることができるのです。これは「JPOP大好きマン」のそれまでの体験をベースに、知らない曲に対するイメージを彼なりに生成しているのです。この”イメージ”生成は、知っているアーティストの知らない曲を踊るときに曲の展開を予測できる状態と似ています。

反対に、曲の”イメージ”を全くを持っておらず技術に特化したダンサーがいたとします。彼は「ダンスバトル」の名のもとでは、曲がどうであれ、技術のおかげで一定のラインまでは勝ち上がっていきます。ですが、不思議なことにジャッジ視点で見ていると、技術一点で押してくるムーブはどこか違和感を覚えるのです。確かに上手なんだけど、「私の音楽のイメージとちょっと違うかな…」と物足りなさを必ずどこかで感じます。お葬式で一流シェフのコース料理が振舞われるみたいな。初めてのデートでディズニーに連れていかれるみたいな。「そういうことじゃないんだよね…」というなんとも表現し難い微妙な空気感の違いを感じます。これこそが周りの持つ”イメージ”に共感されない状態であり、特にJPOPは各々が持っている”イメージ”が強い分、技術とイメージの乖離に違和感を覚えやすいのではないでしょうか。こういった技術特化ダンサーは、技術はそこそこだけど見ている人の共感をより多く得られるダンサーに対してサクッと倒されちゃうこともよくあります。

以上のことから、知らない曲に対しては、その人の体験をベースにイメージを持って踊ることもできますし、技術だけの人がイメージ無くして勝つのは難しいというところから、”イメージ”の有無はバトルの勝敗に影響するものだと私は考えています。

”現在”を踊る人は魅力的


その時、その場で、その感情で聞こえたものを形にした人はとっても魅力的に見えます。

皆さんに質問です。「あの日のバトルで流れた音楽たちは、自分のイメージ通りの良い音楽でしたか?」

例えば、バトルの決勝戦で嵐の”Monster”がかかりましたが、あの曲は皆さんにはどのように聞こえていましたか?

私の場合は思い出補正が入ることもあり、この曲が大好きなんです。”Monster”を聞いただけで、ドラマ『怪物くん』を土曜日の夜に真剣に見てた当時の情景が思い出されたり、当時所属していた部活のおとなしい先輩がカラオケでこの曲を上手に歌っていてギャップを感じた記憶を呼び起こされたりと、当時を鮮明に思い出せるのです。私の中では「エモい」というようなチープな表現では到底形容できないのが”Monster”という曲なのです。

皆さんも一旦聞いときましょう(強制)

しかし、そんな思い入れのある曲を決勝戦で聞いたとき私は驚愕しました。

「こんなに薄っぺらい曲だったっけ…?」

自分のイメージしていた”Monster”と大きなギャップが生じていたのです。なんだかいつもより軽く薄く聞こえて「王子モンスターなのに”Monster”の聞こえ方が微妙だな(笑)」と心中で激ウマギャグを披露しないとやっていられないほどの違和感に襲われたのです。イヤホンで聞くと完成度の高いサウンドに聞こえるし、テレビでふとした瞬間に流れて「いい歌詞だな~」と感じるはずなのに、あの日あの場所ではそのように聞こえなかったのです。これは私が王子モンスター様やDJの方々を非難したいから言っているのではなく、TPOによって音楽の聞こえ方が違うことが往々にしてあるということを言いたいのです。ファンク、アニソン、ボカロにおいても同じような現象がよくあるのですが、特にJPOPは上述のとおり、あまりにも身近な存在であるため、その違和感がより一層強く感じられたのだと考えています。

このような違和感を感じる要因は二つあると考えています。

一つ目は、自分の頭の中に記憶されている、自分専用の音楽を聴いてしまっていることです。自分の好きなアーティストの曲が流れてたかまった人の中には、「その場で流れている曲」を聴いて踊っているというよりも、「自分の頭の中に記憶されている曲」を聴いて踊っていた人もいるのではないでしょうか。会場に流れている音は聴いているけれど、”自身の頭の中で記憶と共にマスタリングされた自分用の正規音源“を聞いてしまっているという状態です。物質的にその場の音楽を感じるのではなく、”感情”が音楽の捉え方を増幅させているような状態です。この状態は、自身への興奮作用でハイパフォーマンスになれる一方で、周囲の人や雰囲気から自分のムーブが逸脱する原因となり、周りからの”共感”を得ることが難しくなるでしょう。

二つ目は、本人の感じ方が変化してしまっていることです。音楽のみならず、「モノや体験に対する感じ方」は、その人の年齢や取り巻く環境、ライフステージによって別人のように変わっていくものです。例えば、小学生の頃に終日夢中になってやっていたはずの「鬼ごっこ」を、今でも同じルールでやって同じ満足感を得られるかと言われれば厳しいものがあります。また、子供のころは苦手だったコーヒーの味が大人になるとその苦みを楽しむことができるようになり、カフェイン中毒者と化して毎日コーヒーを飲むようなこともあります。私が高校生の頃は死にもの狂いで聞いていたEXILEを、今でも死にもの狂いで聞いていないのは、その当時の感じ方と今の感じ方とでは大きく変化しているからに他なりません。そんな感じ方の変化があるにもかかわらず、自分自身の感じ方を無視して、「今でも鮮度が変わらず好き」なフリをして、勝つために「綺麗なシルエット」や「的確な音ハメ」でごり押しすることは、大局的に見て音楽への共感性を失い、周りからの”共感”を得ることが難しくなるでしょう。

これら二つの要因は脳内にセットされている本能的なものであるため、避けるのが極めて難しく、受け入れていかなければならないものであると考えています。そんな本能を受け入れて”良いダンス”をするには、”現在”進行している雰囲気や音楽を聴いて、感じた通りにダンスすることを意識するのが良いと私は考えています。これは「ライブ感」やら「バイヴス」なんていう表現が近いかもしれませんが、私は「刹那主義」とよく言っています。過去の記憶や未来の予測で現在があるのではなく、その刹那を感じたように踊ることが過去の積み重ねを上手く活かし、未来の結果を作り上げていくという考え方です。なんだか自己啓発臭が漂った見方ですが、事実、皆さんがダンスをしているのは、今現在の”この瞬間”であり、過去に戻って上手に踊ることもできなければ、未来の自分が想像通りに良いダンスをする保証なんてどこにもないのです。例えば、バトルで優勝候補ダンサーが圧倒的格下を相手にがっつり負けてしまうのは、その次のバトルを見据えて全力を出し切らなかったり、過去に沸いたムーブを無理やりはめ込んだりと、”現在”を丁寧に踊り切らなかったため、周りの共感を得ることができずに負けてしまうことがあると私は考えています。もちろん、それ以外の要因で負けている部分もあるのですが、会場自体が格下を盛り立てる雰囲気を醸成するため、優勝候補と言われているダンサーにとって正常な判断ができなくなった結果、”現在”にシンプルに向き合えなかったという敗因は大きな割合を占めていると私は考えています。

”現在”を踊っている人というのは、ジャッジ目線として魅力的に映るので評価をしやすいものです。これは、「音楽に対しての価値観」とそれを「表現するための技術」が嘘くさく感じないため、見ている人に不信感を抱かせないことが理由なのではないかと私は考えています。この考え方は、”現在”を踊れば勝てるというわけではなく、”現在”を踊らない人はしっかり周りから見抜かれているということを伝えたいのです。

私のジャッジムーブについても、この考え方を意識して踊ってみました。ツユが好きなんです。どれくらい好きかというと、頭の中でこの曲でコンテストに出て優勝する妄想を何百回としたくらい好きなんです(これダンサーなら伝わるあるあるだと思います)。会場で聞いたときに、私の頭の中の期待が先行しすぎて「音が弱いなぁ」と感じました。だからこそ、最初は丁寧に徐々に上げていって、サビの感情部分は超感情的に嘘偽りなく踊ったつもりです。ムーブが終わった後に「もっとできたなぁ🙄」と後悔の念もあったのですが、これは”現在”を踊っているからこそ抱く感情であるとも考えています。仮に綺麗に踊ることができていたとしても、それは音楽から冷静に一歩距離を置いているとも言えるので、感情的なサビを本心で表現できていないと捉えることができます。でもやっぱ悔しいので伝わるだけの技術磨いてきますね。

これも聞いときましょう。いい曲だから(圧)

感じ方の変化は、どれだけ気を付けていても抗う事のできないものです。時には好きな音楽に対して微妙に聞こえることもあっていいはずですし、思い出補正で良く聞こえていたことを素直に認めることも大事なのではないでしょうか。人の考え方は簡単に変わりませんが、感じ方は変わってしかるべきだと思います。

まとめ

今回はJPOPバトルのジャッジを通して、自分自身で感じたことの振り返りをさせていただきました。

▶私が感じたJPOPバトルの特徴
音楽に対する自身のイメージと他者のイメージがリンクした時に良いバトルになる
その人が持っている”イメージ”がいかに、見ている人の”イメージ”に対して共感を得られるかが勝敗を分ける
イメージが無くても、自身の体験をベースにイメージを生成して表現することはできる。

▶”現在”を踊る人は魅力的
その時、その場で、その感情で聞こえたものを形にした人はとっても魅力的に見えます。
TPOによって音楽の聞こえ方が違う
⇒だからこそ、”現在”(その時の音楽の聞こえ方で)を踊る人は魅力的に映る

本戦トーナメントに関しては良かった人しか存在してなかったです。圧倒的に下手な人が居てくれないと、こちらもジャッジに困るので本当にやめていただきたいですね(苦笑)。予選落ちした人、負けてしまった人も、その結果には納得できるバトルの内容だったのではないかと個人的に思っています。

「音楽を大事に」というよりか、「音楽を聴いた自分の感じ方を大事に」すれば、自分の好きなもの、嫌いなもの、得意なもの、足りないものが見えてくるのではないでしょうか。

最後までご精読いただきありがとうございました!

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