愛と技術、どちらが大事?

とーやです!

皆さんはダンスはお好きでしょうか。

こんな名も知れないよくわからんダンサーのブログに、わざわざアクセスして情報収集するような人は、「ダンス大好き!」「ノーダンスノーライフ!」とまではいかなくとも、周りと比べたらかなりのダンス好きの部類に入るのではないでしょうか。キモイね(誉め言葉)。

かくいう私もダンスは好きですが、他の”ダンス大好きダンス君”たちと比べると熱量は少ないと思っています。”身体操作”や”リズム生成”という観点では、ダンスがすごく楽しいのですが、ダンスの歴史や当時のカルチャー、音楽の成り立ちや理論については不勉強の極みと言ってもいいでしょう。知っていれば楽しめるだろうけど、そこに対するモチベーションが皆無なのです。世の中のダンサーさんの中には、私と同じように技術追及に重きを置いて、歴史やカルチャーについてはそこそこな人もいると思います。反対に音楽や文化が好きで好きでたまらなくて、その延長でおまけのように体を動かしている人もいると思います。ダンスの向き合い方は人の数だけあります。

ここで皆さんに質問です。音楽や文化、カルチャーに対する好きを”愛”として、身体の動かし方やリズムの作り方を”技術”とすると、この”愛”と”技術”のどちらが大事だと思いますか?「そんなのどっちも同じくらい大事でしょ!」というのは承知の上で聞いています。どっちかって言われればどっちですか?(圧)

”愛”も”技術”も大事だからこそ、選択肢を一つに絞ることで自身の本質的なダンスの向き合い方が明らかになると思います。今回は「ダンスで目に見える結果を残す」という観点で、どちらを重要視するべきかを個人の独断と偏見を交えて考察していきたいと思います。争う必要のない両者に火種を灯します(物騒)。

皆さんも是非どちらが大事かを理由もつけて考えてみてください。

目次

”愛”だけのダンサーの場合

”愛”は伝えなくては愛が無いのと一緒です。

極論を言うようで大変恐縮なのですが、あなたの”愛”や”好き”は周りの誰かがそれを認知しない限り、それは存在しないことと一緒であると私は考えています。「俺はこんなに愛していたのに!」とドラマで聞くようなこのセリフも、「じゃあもっと伝えとけよ」のツッコミで終わります。「あなたの愛が重すぎて」という返答があった場合は、だいたい愛が受け止められなくなったわけではなく、違う要因(ノンデリ・モラハラ、他に好きな人ができたなど)で好きではなくなっているだけで、それまでの伝え方でいくらでも軌道修正ができるものだと個人的には考えています。

恋バナはまた別の機会に記事にするとして、ダンスにおける”愛”を再確認していきましょう。”愛”は音楽やカルチャー、それに付随する文化やコンテンツが好きという状態です。具体的には、クラブミュージックやファッションが好きだったり、ソウルトレインとロッカーズが好きなどです。APOPシーンで例えると、アニメやボカロが好きで、MVやOVAまで追っちゃうくらい好きなどです。そのことについてなら、日が暮れるまで、いや、日が明けてまた暮れて気づいたら年が明けるくらいまで語れるくらい好きなものです。

これほど極上の”愛”を持っていれば、ダンスも自然と上手くなる・・・というわけには当然いかないわけです。音楽が詳しいからといって、比例するようにトゥエルの精度も高くなるなんてことはないですもんね。

とあるダンサーのA君を想像してみてください。A君は音楽への知識は抜群でファッションがイケてて、コンテンツについてのアンテナも常に張り巡らせているような愛情たっぷりな人です。しかし、実際に躍らせてみるとシルエットがこの世のモノとは思えないほどのキモさで、リズム感はミハエル・シューマッハでも追い付けないほどのはやどりです。おまけに体力は老人並みのため、10秒も踊りつづけられません。さて、皆さんはA君にどんな印象を抱いたでしょうか。

私が抱いた印象は、「A君は”愛”の無い人かもしれないなぁ」です。見た目はかっこいいし知識は十分にあるでしょうが、ダンスを通じての”愛”の説得力が無いように感じてしまいます。「”愛”があるのなら努めてダンスそのものも練習するだろう」というのが私の認識です。「『外見だけを取り繕ってれば大丈夫』という浅はかな人間なのでは?」という疑念を抱かずにはいられません。

あなたの”愛”がどれだけ大きくても、それを伝える能力が低ければ周りはあなたの”愛”を受け取ることができません。バトルジャッジに対して、「俺のダンスがわからないなんてどうかしてるぜっ!」と悪態ついてバーカンに鎮座する前に、「伝えるだけの努力をしたのか」と今一度自分を見直すべきなのではないでしょうか。あなたに対して”愛”がないなんて言うジャッジはいませんが、あなたの”愛”の大きさがジャッジに伝わっていない可能性は十分に考えられます。

”技術”だけのダンサーの場合

”技術”は利便性を高めるものであり、それ以上でも以下でもありません。

これもまた極論で恐縮です。みなさんの周りに溢れている、スマホや自動車などの”技術”は利便性を高める手段に過ぎません。スマホはどこのだれでも連絡を取り合うことができますが、持っているからといって他人に好かれる人間になれるわけではないですし、自動車は徒歩では行けない遠くのところまで行くことができますが、持っているからといってその人が偉くなったわけではありません。SNS上で小手先の恋愛テクニックがはびこる昨今、まるで恋愛マスターになったかのような気分で、マッチングアプリをポチポチしている皆さまにおかれましてはご健勝のことと存じます(悪口)。そんな皆さまに贈る言葉はただひとつ。「そこに愛はあるんか?」です。私はマッチングアプリを否定したいわけではなく(体験談)、テクニック以上に”愛”を持って接しているのかを聞きたいだけなのです。相手はしっかりそこを見抜いてきますよ(体験談)。

恋バナはまた別の機会に記事にするとして、ダンスにおける”技術”を再確認していきましょう。”技術”は動きのシルエットや音楽へのリズム感、それらを実現できる筋力・柔軟性などを指します。この”技術”が高ければ高いほど、ダンスバトルやコンテストで良い成績を収めることができます。目下ダンスを練習している人たちは、この”技術”に着目してその向上に大きく時間をかけていることでしょう。上記に示した通り、ダンスにおける”技術”についても、スマホや自動車と同様に「利便性」を高めるものであると考えています。ダンスにおける「利便性」とは、労力をかけなくても自身の伝えたいことが鮮明に伝えられることをここでは指します。シルエットを普段から意識している人は、本番でそこまで意識せずとも綺麗なシルエットを再現できるでしょうし、筋力トレーニングに励んでいる人は、トレーニングしていない人に比べて簡単にゲッダンやシフトができます。”技術”が上がることで利便性も向上すると言えるのではないでしょうか。

とあるダンサーのB君を想像してみてください。誰もが真似したくなるような洗練されたシルエット、まるでデパートのような品揃えを誇るリズムレパートリーに、無駄の無い筋力とゴムのような柔軟性を持ち合わせた匠のような”技術”を持っている人です。しかし、実際に踊らせてみると、どの音楽でも変わらないムーブ、音の強弱を物質的に捉えて身体能力でごり押ししています。よく見るとファッションはシマムラとイオンで購入した、まるで中学生のよそ行き一張羅です。皆さんはB君にどんな印象を抱いたでしょうか。

私が抱いた印象は、「B君は”愛”の無い人だなぁ(断言)」です。音楽が変わってもアプローチは変わらないし、そういう人はたいていルーツやカルチャーについてもセットで理解していない可能性も高いです。ファッションセンスは人それぞれだとしても、カルチャー目線で衣装を選んだり現在のシーンの流行りを上手く取り入れるべきなのではないでしょうか。「シルエットやリズム感だけを極めたいのなら、ストリートダンスじゃなくてもよくない?」と本人に聞いてしまうかもしれません。

B君のような極端な例でなくても、”技術”に特化したダンサーはここ数年で爆発的に増えているように思えます。同時に、そんな人がトーナメントの中盤でコロッと負けてしまう光景も多くみられるようになったと思えます。それは”愛”が足りなかっただけだとは言いませんが、ジャッジを下す人間の「感情」を揺さぶる”なにか”が足りなかったのは確かであり、その”なにか”には自分がダンスを通して伝えたいこと、カルチャーへのリスペクトや音楽表現、自身のエゴイズムなど、言い換えれば、これらの”愛”を持っている部分が、「感情」を揺さぶる要素として足りていないかったと考えられるのではないでしょうか。でなければ、ダンスバトルの結果が毎回同じになっていないとおかしいと思いませんか?

ここまで、書いている私自身もグサグサと刺さる部分がたくさんあります(つらい)。私は「ロックダンスの形がかっこいい!」という表面上から入った人間なので、もっぱらシルエットとリズムにこだわって練習を重ねてきました。音楽やカルチャーについては超が付くほどの無頓着、アニメはあんまり見ないしボカロもよくわかりません。ファッションは向いていないので諦めました。私を含むB君のようなタイプに共通することとして、イベントのDJタイムが結構苦痛なのです。バトルやショーに向けてのアップでDJタイムを使うことはあるのですが、「この曲めっちゃ良いね~!」とか「みんなと一緒に身体を揺らすぜ~!」みたいなの本当にできないんですよね。”愛”を持っていれば100倍は楽しめるはずなんですがね。

”愛”を土壌に”技術”の樹を育てよう

それでは「ダンスで目に見える結果を残す」という観点で、どちらが大事なのかを判断していきたいと思います。

私の答えとしては”愛”が大事です。

正確には、”愛”を育んでから”技術”を磨くことで説得力のあるダンスができると考えています。愛”を土壌に”技術”の樹を育てるようなイメージで取り組んでみてほしいです。

このイメージの例だと、A君の場合は土壌の栄養たっぷりで状態もすごくいいのですが、樹が一本も生えていない空地状態なのでそこに集まる動物もいないような寂しい状態です。B君の場合は、樹は生えているんだけど土壌に栄養が少なくて今にもその樹は枯れそうで、動物たちは長くは居られない状態です。決定的な違いはA君には樹を育てるだけの土台がしっかりと用意されているので、あとは樹の苗を育てていければ世界樹くらい成長する見込みがありますが、B君はいくら樹を育てようとしてもその土壌では限界があるので、土壌にしっかりと栄養を与えるか、別の土壌を探しに行く必要があるのではないでしょうか。

この例からもわかるように、”愛”が根底に無いことには「ダンスで目に見える結果を残す」ことはできないと考えています。当然その人のステージによって重要視すべきものが”技術”である場合もあるでしょうが、それには既に莫大な”愛”がある人が、もっとクリアに正確にその”愛”を伝えたいと感じたときに取り組むべきで、基本的な順序は”愛”から”技術”です。よって私は”愛”のほうが大事だという結論に至りました。

”技術”よりも大事だとお伝えした、この”愛”とはどのように育むべきかを私なりの具体的な方法を二つ提案します。

一つ目は、「周りの人の好きなもの、こだわりを聞いてみて自分でも真似してみる」です。具体的には、友だちや先輩、後輩のダンスの練習方法や好きな音楽を聴いてみて、自分が共感できるものがあれば自分に取り入れてみましょう。近しい人のフィルターを通して物事に触れることで、自身の”愛”が形になるきっかけとなることがあります。全く興味の無かったドラマを友人からおすすめされて見てみたら、自分もドはまりするようなそんな感覚でいいのです。「”愛”を育てなくてはいけない!」と焦って、いきなりダンスカルチャーやファッションを勉強しようとすると、元から”愛”の無いものに触れるわけですから長続きしませんし、それは本来の”好き”ではないので良き土壌にはならないでしょう。この方法はお手軽で時間もかからないのですが、他人の好きなものが自分の好きなものだという錯覚を起こす可能性がある点に注意が必要です。周りの皆が見ているアニメが必ずしも自分も好きとは限りません。「あの人のおすすめだから」と自分の率直な気持ちを無視することは思考停止と同じなのです。この錯覚状態のまま樹を育てると成長が急に止まる瞬間が訪れることでしょう。

二つ目は、「自分が嫌いなものを排除して本当に好きなものを見つける」です。何もないところから漠然と好きを探すのは人間の性質上難しいことです。であれば、その逆に自分の嫌いをリストアップしてそれを避けるようにしてみてはいかがでしょうか。この方法は一つ目の方法と違って、他人の好きが自分の好きだと錯覚しづらくなるので、純度の高い自身の”愛”が見えてきやすいです。嫌いがそぎ落とされれば、おのずと好きかもしれないモノが見えてくるので、排除して残ったものに力を注いで、それを伝えるために”技術”を磨けば大きな樹になると私は考えています。この方法の注意点として、嫌いを排除するまでに時間がかかるということと、定期的に自分の好きを見直さないと本当に好きかどうかわからなくなってしまうということです。嫌いを排除した後に”おそらく好きなもの”を実践してそれが本当に好きかどうかを判定するまでには、しっかり時間をかけなくてはなりません。また、人の考えはコロコロ変わります。今日好きだったものが来年も好きとは限らないので、定期的に本当にそれが好きかどうかを自分に問いかけてみてください。

「俺には”愛”がある!なのに”技術”が伸びない!」とお困りの方は、自身のダンスが周囲からどのように見えているかを、他の人にストレートに聞いて回りましょう。周りの人はあなたの内なる”愛”は見えませんが、表面に出てくる”技術”はしっかり見えています。忌憚ない意見を貰って自分の”愛”とすりあわせて表現方法という観点での”技術”にこだわりましょう。「このファンクの打楽器の感じを伝えたいんだ!」と思うのなら楽器のニュアンスに合わせて腕の動かし方を変えたり、「アニメのストーリーの良さを伝えたいんだ!」と思うのならわかりやすいボディランゲージを加えたりなど、”愛”をアウトプットするための”技術”磨きをしてみましょう。表現方法をこだわっていくと、伝えたい”愛”が全部入りきらずに泣く泣く切り捨てる部分も出てくるでしょう。その際は、どうしても譲れないものだけはしっかり伝えられるように、伝えるモノの優先順位を決めてみましょう。取捨選択して本当に切り捨てられないモノを伝える努力をするのも”技術”のうちだと私は考えています。

”愛”だの”技術”だの色々言いましたが、「好きを人に伝える」というシンプルな命題を忘れずにいれば、自分のダンスも他人のダンスも素晴らしく見えてくるはずです。今は”愛”も”技術”もそれほどだったとしても、その意識を持ち続けることで後から遅れて結果として返ってくると思います。是非自分の土壌に好きな色の好きな形の樹を育ててみてはいかがでしょうか。

まとめ

今回は”愛”と”技術”のどちらが大事なのかを、個人的な定義と例えをもとにダンスの結果視点で論じました。

結論:”愛”が大事
”愛”を育んでから”技術”を磨くことで説得力のあるダンスができるので土台になる”愛”を発見・育成していく必要がある。

この理屈については賛否両論あると思います。カルチャーやルーツを知らず音楽に無頓着だけど結果を残している人や、技術が無くても音楽への圧倒的バイブスと雰囲気やファッションで勝てている人などです。しかし、そういった人はほんの一握りの才能と運に恵まれた人なのだと思います。あなたに才能や運があるのならどちらか一辺倒になることは止めませんが、そうでないという自覚が少しでもあるのなら、”愛”を持って”技術”を磨いて結果を残すことは、才能や運に極力頼らない誰にでも再現できる方法なのではないでしょうか。

”愛”にはとてつもない魔力があります。そのあまりの強さは自分や人をリアルに殺してしまうほどです。その熱量が技術向上につながるのは当然です。なによりもあなた自身の持っている”愛”が土台にある”技術”は複製不可能な唯一のモノになります。

ここまで語ってきましたが、私も技術志向を少しは捨てて、ダンスバトルのないパーティイベントで音楽を楽しんだり、アニメや映画をしっかり見る時間を作るようにしています。”技術”は比較してもいいですが”愛”は比較されるべきではないと思うので、自分のペースでゆっくりJBでも聞きながらプリキュアでも見ます。混ぜるな危険。

最後までご精読いただきありがとうございました!

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